また中2が父を

Chumi2006-12-06


小学校教師が、児童の事故死亡時写真をHPに無断掲載している事件が明るみに出た。一昨日の朝、バンビが予備校に行く前に情報収集をする為、必ず見るミノさんの番組で、犯人のVが映し出されていた(顔モザイク)。「なんでそんなことするのですか?楽しいのですか?」という局側のインタビューに「楽しいっていうより・・・高揚感というか、トランス感をかんじるから」と答えるのを見て、ゾッとした。こんな人が小学校教育に関わっていたなんて・・・恐い。小学校でこのような教師が道徳を教えていたのかと思うとやりきれない。

そして、今朝の新聞の一面は、教育熱心な父親が、中2の少年に刺されて重体。母親が、成績で口論しているとき、帰宅した父がそれに参戦して息子を非難したのが、直接の原因らしいが、やっぱり親が二人で子どもを責めちゃだめだと思う。逃げ場がないじゃんよ。以前まだ子どもが小さいときに義母がそう言っていたのを思い出す。「親が二人で叱ったらだめだ。一人がおこっているときは、もう一人は静観すべきだ。」と。またこうも言っていた。「でもそうなったとき、わたしら爺と婆は、逃げ場の役割ができる。」と。でも、どうして、叱られたくらいのことで、父親に刃物を向けられるのか、その短絡的な行動が理解できない。

致知1月号に、このようなことが書かれていた。終戦後、日本は戦勝国により骨抜き政策をとられ、日本の文化の基調であった「恥の文化」「武士道」の精神はずたずたにされ、いままでの生き様が間違ってきてしまっている、と。民族の絆、家族の絆、親子兄弟の絆と取り戻さねばならない。そのためには、教育、とりわけ家族の躾の徹底が必要だと。なるほどそうだなとうなずく。でもその躾を施す親が躾られていなかったらどうするの?
幼児虐待が後をたたない。なぜそんなことを?と言う問に対して、親は、「躾の一貫として」との答えが多い。タバコの日を押しつけたり、ごはんを食べさせなかったりするのが、躾と思っているところが、恐い。

外国人には、根底に宗教があり、その教えがその人のひととなりに大きく影響を与えているように感じる。日本人には、外国人ほど宗教が心に浸透していないひとのほうが多い。私自身もそうなんだけどね。なにか重大なこと行動をすることを決断するとき、親の戒めが聞こえてくるかどうか、とも聞いたことあるけど。とんでもない事件が、人ごとでなくなってきているところが、またまた恐い。
そんな中、瀬戸内寂聴さんが、比叡山延暦寺禅光坊の住職に内定したというニュースは、嬉しい。あの笑顔でお山の上から、皆を明るく照らしてくださることでしょう。

精米するのを忘れていて、今日のお昼はコンビニ弁当。ひさびさに プリンも買った。PCを立ち上げ、ニュースのヘッドラインを追いながら、口の中で溶けていくまったりした甘さにひとときの幸せを感じる。