清冽

茨木のり子のことを知ったのは、少し前の朝のNHKニュースだった。
版を重ねた詩集が文庫となり、これまた売れているという取材だった。
その凛とした詩の言葉が現代の女性の共感の呼んでいるということだった。
だいたい詩集が文庫となること自体が珍しい。
紹介された2編の詩はあきらかに即座に私を魅了し、お弁当の準備をしながらも、ほぼ日手帳に「言の葉」と、その文庫本のタイトルを書き留めた記憶はまだ新しい。

   倚りかからず


もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底まなんだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある


倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

それから数が月ほど経て、友人から「茨木のり子 って知ってる?」とメールが来たので驚いた。
「すごく良いの!すぐに回すから とにかく読んで!」と。

清冽―詩人茨木のり子の肖像

清冽―詩人茨木のり子の肖像

この評伝「清冽」は 茨木のり子の詩をふんだんに紹介しながら、彼女の自立した生き様を優しく語る。
まず、本書カバーにある彼女の美人ぶりに驚いた。
詩人というのは、「貧しく、暗く、難解なものを書くひと」という先入観は彼女のすがすがしい笑顔で覆され、扉を開く手が早まった。

   自分の感受性くらい



ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて


気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった


駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

50代になって出された自分に向けたこの詩は、見事にストンと私のこころに落ちた。




医者でお手伝いさんのいる家という経済環境に恵まれたというのは、詩人を排出する既存の環境から外れているようで珍しく感じたが、彼女が「私は男に恵まれていた」と言うとおり、あの時代で経済的自立を目標にさせた父親の育て方、そして、彼女を理解し、才能を認め、やりたいようにさせていた伴侶の包容力にも驚いた。
それになにより、彼女のまっすぐな性格に関心した。
50才からハングルを学び、自分のものとして、韓国の詩を翻訳し日本に紹介した功績も大きいと感じる。

家庭にいる女の才能をどう開花させるのかは、男の理解力にも依るじゃないかと大いに考えさせられる。
彼女に子どもがいたら、また違った作風になっていただろうし、愛する伴侶に早く先立たれたことも彼女の感性を研ぎ澄ますことになったんだろう。

詩も理解しやすく、かなり共感を得たが(無論難解なのもある)、評伝もわかりやすく、退屈せず最後まであっというまに読了した。
そして、是非 今度こそ「言の葉」を自分の蔵書にしようと思った。

茨木のり子集 言の葉3(全3巻) (ちくま文庫)

茨木のり子集 言の葉3(全3巻) (ちくま文庫)